異次元の創作時間

 小腹が空いて目が覚めてしまった。明かりをつけるとまだ真夜中だった。1時間も眠っていない。何か口にするなら体によいものの方が、罪悪感が少ない。冷蔵庫を開けるとちょうど未開封のヨーグルトがあった。スプーンとプレーン・ヨーグルトの箱を持って、テーブルについた。
 中身が飛び出さないようにヨーグルトの蓋を慎重に開けた。すると、中でおじいさんが机について煙草をふかしていた。深夜からの時間帯は、レンタルスペースになっていると言う。そんな馬鹿な話は聞いたこともない。年寄りのハッタリに違いない。


「出て行ってくれ!」


「真夜中にヨーグルトか?」
 おじいさんの口から吐き出される灰色の煙が、狭い部屋中に広がる。


「俺のだ!」


 強く叫ぶとおじいさんはすっと立ち上がった。机と椅子を抱えてヨーグルトから出て行くと、腰を屈めて冷蔵庫の下の隙間に消えていった。こちらとしても、それ以上の追跡は無用だ。
 プレーン・ヨーグルトは、おじいさんの重みで箱の半分ほどまで凹んでいた。けれども、その表面には足跡1つもなく、奇妙なまでにフラットだった。

 

カシミヤにたどり着けない

 冬になると毎年のようにカシミ屋さんの前には、長い長い行列ができた。厳しい冬を越すために、唯一無二と言える温もりが求められたからだ。当時の人気はそれは凄まじいものだった。家族で並んだとしても、先頭までたどり着けることは、ほんどなかった。


「本日はここまでとなります」


 あと一歩のところで、完売が宣言された。旬のマフラーへの道程は思った以上に厳しかった。


「隣に行きましょう」


イズミヤ嫌だ。カシミアがいい」


「2階のパレットにもいいのがあるかもよ」


「パレットやだ。みんなカシミアだもん」


「よそはよそ。うちはうちよ」


「何それ? 当たり前の繰り返しじゃん。意味ないじゃん」


「A=A 公式の基本よ」


「姉ちゃんの知ったかぶり」


「背に腹は代えられんもんじゃ」


「じいちゃん何それ?」


「まだ早い。わしくらいになればわかる」


「ならないよ。姉ちゃん知ってる?」


「教えない」


「パレット行くから。ほんと知ってるの?」

 

ライスボール(感動大一番)

「いよいよ待ちに待ったこの時がやって参りました。今までの時間はまさにこの時のためにあったと言えるでしょう。待ちわびたほど期待はより大きく膨らみ、その向こうには生を実感する感動が約束されているのではないでしょうか。そこに感動があるならば見届けようとするのが人間だ。この大一番を待たなかった人間がいるだろうか。ここを素通りできる人間がいるのだろうか。いやそんなものはいるはずもない。私はここで自信を持って断言します。この待ちに待った大一番。いったいどんな中身のあるものが見られるか。駆け出しがあれば結びがある。それが人生の成り立ちと言っても過言ではありません。


さあ、いよいよ興奮が最高潮に達して参りました。もはや、一瞬たりとも待つことができません。さあ、おばあさんが颯爽と入って参りました。既に手には塩がつけられているのが見えます。さあ、釜が開いた。おばあさん、握りました。握った握った、これは力強い握りです。キュッキュ、キュッキュと小気味よい音が聞こえてくるようであります。微妙に角度を変えて、おばあさん、握った、握った、握った、これは間違いがない、誠に洗練された仕草で、テンポよく握っていく、これは上手いぞ! そうなると中身の方も気になって参りました。


さあ、おばあさん、教えてください。今日の中身は何なのか。伝統か趣向かはたまた想像を超えた大冒険なのか。おばあさんは涼しげな顔で握っている。握った、握った、握った、握ったー! 中身はナッシング! なんとなんと中身は何も入っておりません。見たか、これがおばあさん渾身の握り! 中身が何だ、梅だ、おかかだ、ツナマヨだ、そんなものは子供のお遊びだ、私にとっちゃこの塩だけで十分だ、余計な細工なんかいらねえよ、おばあさんの高笑いが聞こえてくるようであります。駆け出しの奴とはわけが違う、小細工は必要ない、塩さえあれば十分だ、私の真心を受けてみよ、お前たちの胃袋を満たすくらいは簡単なことよ、おばあさんの自信の握りが光っているように見えます。


おばあさん、握った、握った、握った。一粒一粒が光り輝いております。おばあさんの逞しい手に刻まれた皺の一本一本が歴史の立会人、旨味の伝道師となって握り飯に輝きを与えているようであります。さあ、できるぞ、今にもできるぞ。まさに最速にして最高の即席料理。どんな一品料理にも負けることのない最高の一握り。なぜならば、おばあさんのその手の中に地球よりも大きな愛情が詰まっているからであります。どんな鍋でもなく、どんなソースでもなく、その手こそが命であるからです。


おばあさん、何食わぬ顔をして、握った、握った、握った、握った、握った、どっちだ、どっちだ、転ぶか、いや転ばない、落ち着いた手さばきを見せて、今、おばあさんの手から離れそっとお皿の上に置かれました。


瞬く間に完成です。今日一番の結びができあがりました!」

 

エンドレス・チャリン

 憂鬱は時を長くする。単に時だけが引き伸ばされたとして、誰が幸せと呼ぶだろう。楽しいは時を速める。夢中になれば時を超えて未来へ進むことができるのだ。それは死への接近に等しいが、生まれるものがあることも見なければならない。駆け抜けて行くものは夢のように儚い。時は惜しいほどに楽しいものが含まれている。それは幸せと呼ぶことだってできるはずだ。未来は未知で危険なものかもしれない。だけど、時々、僕の胸は高鳴っている。現れるであろうものに期待を寄せて、僕は一歩前に進み出る。小さなコインを握りしめて、ガチャの前に立つ。


 
チャリン♪
 入れたコインが返ってくる。
 もう一度、気を取り直して。


「チャリン♪
 今は取っておけ。私を取っておけ」


 返ってきたコインがささやくのが聞こえた。
 しかし、そんなことでは経済が回らない。
 突き返す勢いで、僕はコインを押し込んだ。


「チャリン♪
 今日は独りじゃないの。今度、友達と来なさい」


 いや、そういうことじゃない。僕は独りで楽しむことを知っている。時代は今やシングルを推奨しているのだぞ。


 えいっ♪


「チャリン♪
 今はまだその時ではない。同志を集めでっかく使うのだ!」


 何だ何だ。革命でも起こせってのかい。いかれた玉だぜ。こんな戯れ言に耳を傾ける必要もなし。


 行くぜー♪


「チャリン♪
 これは受け取れません。本当に大事なもののために取っておきなさい」


 なんて遊べないマシンなんだ! 本当に大事なもの? それがわかればこんなとこまで来てないんだよ。こんなとこ? いやそんな捨てもんじゃないだろう。


 そーれ♪


「チャリン♪
 夏休みまで取っておきなさい」


「うっせーや」


「チャリン♪
 ええか稼ぐってのはな、案外大変なんやで。生意気な奴の言うことも聞かなあかん。デタラメな奴に頭下げなあかん。朝から晩までマシンのように働かなあかんねん。君わかっとんのかいな。粗末にすんな君……」


 大変だから何だって言うんだ。小銭がそんなに偉いのか。返ってくる度につけあがるコインに僕は嫌気がさしていた。
 外れでも何でもいい。(もはや空っぽのカプセルが出てきてもいい)ハンドルを回せたらそれでいいんだ。


 頼む!


「チャリン♪
 快楽に走るな!
 探究しろ! 成長しろ! 積み上げていくのじゃ!」


「ああもう、うっせーな。黙って落ちろ!」
 僕はコインを手にフロントに駆けた。

 


「すみません。このコインぶつぶつ言って変なんで替えてもらえますか?」
「はい? かしこまりました」


 おかしなコインのせいで時間を無駄にしてしまった。僕も少し意地を張りすぎてしまったようだ。これからは困った時にはもっと人に頼るようにしよう。
 気を取り直して、僕はマシンの前に戻った。
 改めてフレッシュなコインを投入する。


 何が出るかな?


「チャリン♪
 無駄なことさ。魂までは変えられないんだから」

中華ドロボー

「アンドロイド?」
iPhoneだけど」
「17?」
「12」
「古いんだね」
「まだ新しいよ」
「ちょっとみせてよ」
「えっ?」
「うん、やっぱりあったかいね」


 少し暖を取らせてほしいと言って猫は私のアイフォーンを枕にした。


「もういい?」
「もう少しゆっくりさせてくれないかな」


 そう言って猫は譲らなかった。


「お客さん、何しましょうか?」
冷やし中華


 冷やし中華。その言葉を聞いて枕の上にいた猫は、目を閉じたまま身震いした。風を送ったわけではない。直接水をぶっかけたのでもない。微かに猫を動かしたもの。それこそが詩の力ではないだろうか。理屈でなく、長い説明も必要とせず、ただの一撃で遠く離れたものを結びつけ、心の奥深くに眠るものを揺さぶってしまうとは。


「はいお待たせ!」


 一口食べてこれだとわかる美味さ。自分の望むものが期待以上の形になって現れる素晴らしさ。


(ああ、美味いな……)


 鏡を見なくても自分が笑顔になっていることはわかる。ただ美味しいものを食べたというだけで、どうしてこうなってしまうのだろう。笑顔でいるということは、幸せであるということだ。ならば、人間の探求する幸せとは、本当はもっとシンプルなものなのかもしれない。


(ああ、もう何もいらないや)


ごちそうさん!」
「650円です」
「PayPayで」


 そう言ってポケットからスマホを出そうとして、猫のことを思い出した。iPhoneはまだ猫が使用中なのだった。


「あの、猫は?」


 さっきまでいたはずのテーブルの上に、猫がいない!


「猫なんていませんよ!」
(いるわけがない)


 大将は少し怒っているように見えた。決して広いとは言えないが、隅々まで清掃が行き届いたような店内。確かにこんなところに猫はそぐわない。だったらあいつは……。


「千円から」


(あいつロボットだな)

敗軍の将(トリプル・ショック)

「まで。遠藤八段の勝ちとなりました」


 なんと!


 私はまだ自分が負けたという事実を信じられないでいた。生まれて初めての反則負け。痛恨の3手指しだった。


「いやー、ついポンポンポンと指しちゃったよー」


 バカらしさ、恥ずかしさ、複雑な感情が入り交じって、私はいつになく陽気に振る舞っていた。


「ああ」


 八段は、敗者のように小さく頷くだけだった。
 そう。本来なら「負けました」と言って頭を下げるべきは向こうの方だろう。本当にあと少しで勝ちだった。そもそも形勢差は圧倒的で、物わかりのいい棋士ならば、とっくに投了していてもおかしくはなかったのだ。私は既に半分勝った気になってほとんど夢見心地だった。それで勢いに乗って少し指しすぎてしまったというわけだ。


「黙って歩取っといたらどうしてました? 手ないでしょ」
「確かに。そうですね」
「銀出たっていいでしょ。指す手ないじゃない。その飛車は世に出れないっしょ」
「ああ、そうですね」


 相手は駒損が酷く戦力が足りない。残っている駒にしても、急所に利いている駒はどこにも見当たらない。囲いはすっかり崩れ、玉の守りは桂1枚だった。


「パスしてもいいじゃないか。何も手がないんだから」
「どう指されても負けだと思っていました」


 感想戦の私は無敵を誇った。
(なんて手応えのない相手なんだ!)


 私はまだ負けたことを認められず、盤上で指を動かしていた。
 今日は少し勝ち急ぎすぎただけじゃないか。


「おやつのポンジュースがまずかったかな……」

ヒット・マン

 俺たちの描くハードボイルド。スタントは一切なしが鉄のルールだ。俺は筋金入りの殺し屋。いつだって何らかの勢力に追われている。追うのならば俺の右に出る者はいない。一度定めた狙いを俺は外さない。信念は何があっても貫き通す。いかなる雨も嵐も俺の信念を足止めすることはできない。朝食はトースト1枚切り。チーズがあれば上にのせる。なければトースト1枚切りだ。家族はいない。俺は非情に徹することができる。愛する煙草は1日50本は当たり前。俺は本物のヘビースモーカーだ。いつだって煙草と拳銃を手放さない。勿論、どちらも本物だ。俺たちの描くハードボイルド。目指すところはいつだってナンバー・ワン。さあ、そろそろ始めるとするか。


「景気付けに1発行くかい? 役者は揃ったか? どこだい? 監督。監督さんよ……」


バーン!


「そんな……。こんなことって……。俺は主役。どうして?」


「さて、お集まりのみなさん。邪魔者は消しました。彼はとても危険な男でした。彼一人で何人もの役者が消されてしまうとこでした」


 殺し屋の納まった棺桶の上に花束が捧げられた。それを機に監督は大幅な路線変更を発表した。バイオレンスを改めてハートフルコメディだ。役者たちの歓迎の拍手が村中に響いた。


「ジャンルを間違えては話にならない。その時点で、the end 。時代の主役は、みなさんすべてです!」